コラム 生駒屋敷

時代考証から学ぶ事 =NHK大河ドラマ「真田丸」=

 大河ドラマ「真田丸」は視聴率も高く人気があるようで、私も毎週楽しみにして見ています。

 興味ある場面がありました。平成28年7月10日放映の第27回「不信」で真田信繁(幸村)と兄の信之が「従五位下」に叙任される場面で、「口宣案」が映ったが、姓は二人とも「豊臣」の姓でした。以前コラム欄で「生駒利豊」が「従五位下・隼人正」に叙位叙任された時の名前は「豊臣宗直」であったことを書きましたが(コラム欄・・・「生駒利豊の叙任・任官書について」に実物の写真が載っています)、全く同じでした。真田信繁は「従五位下・左衛門佐」、真田信之は「従五位下・伊豆守」になりました。

 当時、官位を賜るには「橘藤源平」(きっとうげんぺい)と云って、橘氏・藤原氏・源氏・平氏の家柄でなければならなかった様で、秀吉の時に特に「豊臣」という姓を賜り、豊臣姓でも官位が貰えるようになりました。それで、生駒も真田も「豊臣」で貰ったのでしょう。ちなみに、徳川家康は「源」(みなもと)姓で叙任を受けています。生駒家も尾張藩時代に三人(十代・周房、十一代・周邑、十四代周晃)が「従五位下」を賜っていますが、その時は藤原姓で貰っています。

 ドラマの中で、真田信之の正室は本多忠勝の娘ですが、忠勝の嫡男に久菴桂昌の孫(徳姫の娘)が嫁いでいますので、義姉妹ということになります。(コラム欄・・・「本多平八郎姿絵屏風」参照)真田信之は本多忠勝の娘を娶っていたせいか、関ヶ原の戦いでは東軍(家康側)につき、戦後、加贈・転封(信州・松代藩・・・10万石)され、真田家は明治維新まで続きました。

平成28年7月
肥後次郎