コラム 生駒屋敷

生駒利豊と秀次事件について

 生駒家五代目・利豊は家長の四男として、天正三年(1575年)に小折で生まれる。

 姉が蜂須賀家政(阿波徳島藩二五万石の初代藩主)の正室として嫁いでおり、子がいなかった為、天正十三年(1585年)家政の養子となり 蜂須賀五郎八と名乗っていた。秀吉の命により、秀吉の後継者である関白秀次に近習として仕え、天正十九年、従五位下の位を賜り、宮廷に参内している。
 また、秀吉から「豊臣」の姓を賜り、豊臣宗直と名乗った時期もあった。秀吉の小田原征伐、天正一八年(1590年)には、秀次は秀吉の弟・秀長が病気であった為、副将として出陣し、利豊も一六歳で従軍している。

 小田原征伐が終了したあと、秀吉は奥州に足を延ばし、奥州諸大名の配置替え・検地を行った。その結果、伊達政宗は小田原征伐時の遅参等の理由で、150万石から72万石に減封され、葛西氏・大崎氏は改易され、新たに、蒲生氏郷に会津で91万石与えられた。(所謂、「奥州仕置」である。)

 しかし、秀吉軍が京都に引揚げると、葛西・大崎氏の旧臣達をはじめ、奥州各地で一揆・紛争が起きた。裏で伊達政宗が糸を引いているとの噂が流れ、伊達政宗は秀吉に召喚され弁明をしている。政宗は許されるが、石高は更に減らされ五八万石となった。

 この一連の一揆・紛争処理の総大将が秀次で、徳川家康・上杉景勝と共に鎮圧している。
利豊も当然、秀次に従って奥州各地を転戦したと思われる。

 秀次は、秀吉の後継者としてそれなりの活躍をしており、秀吉も天正十九年(1591年)に嫡男の鶴松が亡ると、その年、十二月に秀次に関白職と聚楽第を譲っている。この頃が、秀次の絶頂期であったろう。
利豊達若い近習にとっても、前途洋々とした楽しい時期であっかも知れない。

 しかし、二年後の文禄二年(1593年)に秀頼が生まれると、秀吉と秀次の間はギクシャクとしはじめ、有名な秀次事件が起きた。
原因は、謀反説・讒言説・暴君説等諸説あって本当のところは不明であるが、石田三成等が聚楽第で秀次を糾弾し、秀次は誓紙を差し出すが、高野山に追放され、切腹させられた。この当時、高野山に追放されると云う事は、命は助けられていた様であるが、切腹までさせられるとは、異常な事と思われる。
秀次事件は、秀吉に実子秀頼が生まれた事が一番の原因ではないだろうか?
秀吉の処罰は厳しく、秀次の後見・家老職八名をはじめ、多くの者が自害・賜死させられた。秀次の妻子三十数名も、三条河原で処刑され、残酷極わりないものであったと云われている。

 この時、利豊は二十歳程であったと思われるが、利豊と同年輩の近習(山本主殿・山田三十郎・不破玄隆など)は、二十歳前の年齢で殉死している。
多感な時期の利豊にとって、ついこの前まで、将来の天下人の家臣との自負と希望で一緒に過ごしていた仲間が突然の事件に巻き込まれて死に追いやられた事の衝撃や、自分にも処罰が下るかもしれないと云う恐怖もあったのではないだろうか。

 秀次事件で、利豊は罪に問われる事は無かった。蜂須賀家(小六)が秀長(秀吉の弟)と秀吉の若い時から天下取りまで、重臣として支え、秀吉の信頼が厚かった事によるのかもしれない。

 利豊は蜂須賀家に戻るが、蜂須賀家にも至鎮(阿波徳島   二代藩主・・・生駒家長の孫)が生まれていたこともあり、蜂須賀家との養子縁組は解消して、(秀次事件も脳裏をかすめたかもしれない?)小折に戻り家長の後を継ぎ五代目となる。

 利豊は、その後秀吉の旗本となるが、関ヶ原の戦いでは家康方につき、戦後、福嶋正則と共に大阪城西の丸で家康に拝謁し、家康の四男・松平忠吉が清洲城主となると二千石で仕えている。
しかし、忠吉は若くして亡くなった為、蜂須賀家政の口利きで、池田輝政に五千石で仕える手筈が整っていたが、家康の命で徳川義直に二千石で仕える事になった。

 利豊にとって、秀次近習の頃や、蜂須賀家政の養子となった頃は、将来の大名も夢ではなかったであろうから、それらの夢が砕け散った時には、五千石でも二千石でも父祖伝来の地で暮らせるのには大きな問題では無かったかもしれない。

 正保四年(1647年)、家督を六代目利勝に譲り、奥羽地方に旅している。奥羽地方は能因法師(1050年没)や無常感に生きた西行(1190年没)が旅した所である。(後に松尾芭蕉も行き「奥の細道」を残している。)  利豊も70歳すぎて無常感にかられ先人の跡を訪ねる心境になっていたのかも知れない。先人が歌を詠んだ「遊行柳」(栃木県那須町)の地で、利豊も歌を詠んでいる。

 奥羽地方の旅では、若き日、秀次の下で奥州一揆の鎮圧で、駆け巡った所もあったであろうし、秀次事件で若い命を落としたかっての仲間達に悲しい想いを寄せる事もあったのではないだろうか。

 今年は、戦後70年と云う事で、特攻隊で若い命を亡した戦友の事を生き残った老齢の人が、悲しく偲んでいる記事が散見されたが、利豊も同じ心境ではなかったか。

 秀次事件についての利豊の感想等の記録は無いが、秀次事件が利豊の人生にかなり大きな影響を与えた様に思えてならない。