コラム 生駒屋敷

=豊臣秀吉の最古の書状= 秀吉の書状が現代に伝えるメッセージ

 前回の「=地図が示すもの= 若き日の豊臣秀吉、久菴の観音像」で、秀吉の若かりし頃の書状について触れた。近日、「歴史史料の説明」のコーナーに掲載する旨書いたが、「歴史史料の説明」に掲載するだけでなく、このコラムでも書き残しておきたいと思い、この書状が現代に伝えるものを述べていきたい。

 書状の写真と現代語訳は以下の通り。

  生駒八右衛門様 皆々様 木下藤吉郎
 
  この度は、今朝、二百文受取りました。
  加納年貢、ごくろうさまでした。
  それとともに、残りの一貫文下さる様期待しています。
  謹んで申し上げます。

    十二月二十九日   秀吉(花押)

 

 

  生駒八右衛門様 皆々様 木下小一郎
              秀長
  いただくお金は(悪銭・破損銭ではなく)精銭にて下さる様お願いします。
  加納年貢を代行徴収して一貫文下さいます様お願いします。
  残りは置いておいて下さい。
  この者に疑いなくお渡し願います。
  お待ちしております。
  謹んで申し上げます。

    十二月二十九日   秀長(花押)

 

 

 この書状を上記の通り現代語訳したのは、京都大学の助手を経て、神戸大学の名誉教授になられた熱田公(あつたいさお)先生である。生駒家に来られた際に、現代語訳をして下さった。古文書には、癖のあるものが多く、特に江戸時代以前の物は読みにくいものが多い。全てを読めなかったため熱田先生に訳していただいた。

 この秀吉兄弟の書状は、年貢を代行して徴収して来て欲しいと、生駒家長(八右衛門)に頼んだもので、日本で一番目か二番目に古い書状であると言われている。
 一番目か二番目に古いがどちらが古いかわからないので、当コラムでは「最古の書状」と題した。(前項では二番目とした)

 なぜ、最古と言えるのか、一つは秀吉のこの時代の書状が残って居ない事が一番にあげられる。残っていない理由は、秀吉の地位がまだ低い時代のものであるからと推測できる。なぜ地位が低いと言えるのか、それは、徴収する年貢の額が小さいからである。書状は生駒家長が代行して徴収をしていたため、間違いのないように書状を記録として残していたのだろう。

 もう一つは、当時の習慣的な折り方であるためである。捻り文(ひねりぶみ)捻り封(ひねりふう)という。
 「歴史史料の説明」のコーナーでいくつかの古文書を紹介している。そのすべてに折り目を残した状態で撮影し掲載している。これは面倒だから雑に撮影している訳ではなく、延ばして撮影すると、折り目がわからなくなるからである。文化や伝統、習慣、それら歴史を繋ぐ事とはその様な正しさを残す事だと思う。
 稀に、古文書をコピーして公開している方がいると聞くが、それは古文書の「そもそも」が理解されておらず、大変残念な行為である。コピーをすると、折り目が損なわれたり、古文書そのものが破損する可能性がある。古文書は内容だけ残ればそれで良いという物ではないと思う。そのため、生駒家では古文書を撮影する事はあれど、コピーをしたことは一度もない。また、熱田先生はじめ、調査に来られる研究者の方も皆同じである。

 古文書の年代測定について言えば、江戸時代には、紙のリサイクルが行われ、再生紙として使われていたので、紙の素材の年代測定だけではあまり意味は無い。結び方、折り方、封じ方、そういったものからの検討も必要であろう。また、古文書に書かれた内容も重要である。当時の習慣に当てはまるか否か。近年に書かれた偽文書には、この点が欠けている。近現代に作った偽文書ではなく、書き写しと言っても、その写したものが、写した当時の習慣、例えば江戸末期に写したと言っても、江戸時代の末期の習慣と異なるのである。習慣とは歴史を見ていく上でとても大切な事である。

 この秀吉兄弟の古文書を読んでもわかるように、文の順序が現代では通用しない。意味はわかるが、文の書き方は現代では使われない書き方である。それが習慣であり、その古文書(書状)が書かれた時代の根拠となる。

 なお、この古文書には、まだ伝えてくれる事がある。秀吉の弟、秀長(小一郎)の存在である。私は、秀長(小一郎)の書状を見た事が無い。当時は秀吉と二人で活動していたことがわかる。また、使いの者に疑いなく託すよう伝えている事から、生駒家長と秀長(小一郎)の関係も信頼があったものと推測できるであろう。

 一貫文=1000文である。秀吉が徴収する年貢がこの単位の時代のものである。その後、大坂城に拠点を置き、天下人として栄華を極めた秀吉の出世街道の一コマを物語る書状と言えるだろう。

平成28年10月     
生駒 英夫