コラム 生駒屋敷

津和野探訪

 先日、山陰の小京都と云われる津和野に行きました。
津和野は江戸時代、亀井氏4万3千石の城下町で、今も当時の武家屋敷や鯉が泳いでいる掘割など城下町の面影が残っていました。

 お城は山城で、リフトで登りましたが建物は残ってなく石垣だけですが、城跡からの山に囲まれた細長くて、こじんまりした城下町の眺めは実に爽快でした。

 津和野藩主の菩提寺(永明寺・・曹洞宗)を訪ねました。
高い木々に包まれた坂道を上ると山門があり、中に入ると広場になっており、左側奥に有名な文豪・森鴎外のお墓がありました。

 鴎外は御典医の家系に生まれた秀才で、最年少で現在の東京大学医学部に学び、軍医総監・帝室博物館 (現在の東京・京都・奈良国立博物館)総長を務めましたが、有名な遺言( 余ハ石見人、森林太郎トシテ死セント欲ス。
 ~ 森林太郎ノ外、一字モホル可ラス ~ 宮内省・陸軍ノ栄典ハ絶対ニ 取リヤメヲ請フ。)に依り、お墓は「 森林太郎墓 」とのみ彫ってあります。
鴎外は東京で亡くなり、こちらは分骨されたお墓ですが、木々に囲まれた墓地にあるお墓は、風情がありました。

 山門を入った広場の右側の石段を上り、中雀門をくぐると茅葺屋根の本堂があり、その左奥に坂崎出羽守のお墓があります。

 坂崎出羽守は宇喜多秀家の従兄弟で、旧姓は宇喜多姓であったが、秀家と対立し、関ヶ原の戦いでは家康側に与し、姓も坂崎と変え、戦功により最終的には津和野藩(4万3千石)の藩主となった人物です。

 大坂夏の陣(1615年)で大坂城落城時の千姫救出(注1)に関係した様ですが、所謂、千姫事件(注2)で死亡し、坂崎家は断絶(1616年)となりました。

(注1) 千姫救出については、豊臣方の武将が千姫を徳川方へ届ける為千姫を連れて脱出し、坂崎出羽守の陣所に着き、坂崎出羽守が秀忠の所へ送り届けたとの説が有力の様です。

(注2) 千姫事件とは、千姫が本多平八郎忠刻(久菴桂昌のひ孫)と再婚するにあたり、坂崎出羽守が不満を持ち、千姫と本多忠刻の結婚を妨害しようと企てた為、千姫の父親(将軍秀忠)が切腹を命じたと云われていますが、何が原因で妨害しようとしたのか?
 叉、坂崎出羽守の死亡も自害か殺害かも諸説あり、真実は不明ですが、坂崎出羽守は死亡し、お家は断絶しました。

 本多平八郎忠刻も千姫も新しい門出の時に騒動が起き、嫌な思いをしたのではないでしょうか。

 坂崎家断絶の後には、亀井氏が藩主となり明治維新まで続きます。

 余談ですが、亀井家の幕末最後の藩主は、教育熱心で、津和野藩では神道・国学を奨励し、独自の宗教改革(神仏分離)を行いました。
 
 明治新政府になると、亀井家藩主及び重臣が神祇官に登用され、全国的に「神仏分離政策」を展開し、行過ぎた地方では「 廃仏毀釈 」運動が起こり、多くの仏像・建立物が破壊され、現存していれば国宝級の物がかなり失われたと云われています。

 寺院によっては、藩から寺領を貰っていたところも、明治4年の社寺上知令により境内地を除く土地は没収されましたから、檀家も1家しかない様な寺院は、存続が大変だったと思います。

 久昌寺(生駒家だけの菩提寺で、寺領200石)の対応については、本ホームページの「史乗管蠡」の『久昌寺領660石)』を参照願います。

(参考)
 津和野城址からの眺望・永明寺の様子・森鴎外、坂崎出羽守の墓については、
 インターネットで検索すれば、写真が載っています。
平成28年6月
肥後次郎