コラム 生駒屋敷

尾張藩の下屋敷(戸山屋敷)と生駒周房(十代)

 尾張藩は、下屋敷として現在の高田馬場と早稲田大学の中間程の所に、「戸山屋敷」を拝領していました。
当初は約8万5千坪でしたが、近隣を買い増し約13万坪(名古屋ドーム9個分)の広大な敷地です。

 広大な敷地には、御殿・長屋・倉庫などの建物群がありましたが、これだけの広さですから、農地として利用していた土地を除いても、武蔵野台地の起伏のある深山幽谷の様な雑木林もある屋敷がありました。

 尾張藩では、ここに江戸随一と云われた 「池泉回遊式庭園」 を作りました。屋敷全体の8割程を占めていたと言いますから、規模の大きさが想像されます。

 他の大名家も庭園を作っていますが、御三家筆頭の尾張藩はやることもスケールが大きく、ここに東海道小田原宿を模したと云われるが、むしろ山間部に近い鄙びた宿場町風の宿場町そのものを作りました。

 今風に云えば、「テーマパーク・・・宿場町」ですね。

 街道の長さは百十三間(約200メートル)で、三十七軒の商家が建ち並んでいたと云います。
町屋の入口には制札が立てられ、本陣・問屋・旅籠屋のほか米屋・絵屋・薬屋・酒屋・植木屋・瀬戸物屋・鍛冶屋など趣向を凝らした家々が立ち並び、大日堂や明神様を祀った社もあったそうです。

 遊び心と風流さを兼ね備えた桃源郷のような風情で、現実の宿場町では遊べない殿様や将軍様にとって楽しい癒しのテーマパークだったのではないでしょうか。

 11代将軍家斉は、寛政5年(1793年)以降、計4回も遊びに来ていますが、将軍様が見えるとなると庭園の手入れも大変で、掃除人足・・・2,734人、杣人足・・・222人 (いずれも延べ人数・1ヶ月間)を動員して整備しています。これも、「藩御用達豪農」が近隣から人を集めて対応しています。(当然、藩は料金を支払っています。)

 将軍様だけでなく、お付きの人々の接待もあり、迎える方も大変であったと思われます。
 将軍家斉に、この庭園を「天下の園池は当にこの荘をもって第一とすべし」と云しめる程の庭園でした。

これだけ大規模な庭園でしたが、明治に入り陸軍用地になり、現在では殆ど面影は残っていません。

この戸山屋敷に生駒周房(10代)が勤務した時のことを。座右録に次の様に書いています。

 「寛延二年三月十二日、尾発足家内同道東海道旅行二十一日江戸到着相勤申候。江戸屋敷ハ込原町戸山屋敷の並ニ新御添地と唱候所也。此地昨年菅沼伊賀守殿屋敷を御買添ニ相成新添地ト相唱、総坪数五千六百坪余有場所也。右之内居屋敷ニ被下置候場坪数千四百坪余リ、残り四千二百坪余之所百姓ヘ相渡年貢地ニ相成筈ニ付、是又相願自分〆年貢上納不残受払ニ致候」

(上記現代訳)
 「寛延2年(1749年)3月12日に家内も連れて東海道を旅し、21日に江戸に着きました。江戸での屋敷は戸山屋敷の並びに新しく添え地となった所で、昨年、菅沼伊賀守殿の屋敷を買い取った所です。総坪数5,600程で、そのうち1、400坪程を屋敷地として下され、残りの4,200坪程は百姓に年貢地として渡し、自分より年貢を受取、残さず上納しています。」

 この様に、戸山屋敷は近隣(約5,600坪)を買い増しされ、その内1、400坪程を屋敷地として生駒周房が使用し、残り4,200坪余を百姓に貸して年貢を取って納めていた事が判ります。さすが、御三家筆頭の尾張藩は財力があったのですね。
 また、当時、名古屋から江戸まで9日間で行った事が判ります。

 尚、生駒周房は、尾張藩になって、生駒家では最初に従五位下・大膳亮に叙せられた人物(知行4千石)で、この時の役職の記録は残っていませんが、屋敷の管理責任者だったのかもしれません。

≪戸山庭園≫ 作画 生駒陸彦
(参照文献)
 『尾張藩江戸下屋敷の謎』 小寺武久著 中公新書
 『大名屋敷の謎』 安藤優一郎著 集英社新書
 『尾張徳川家戸山屋敷への招待』 新宿区立新宿歴史博物館

平成28年8月
肥後 次郎