コラム 生駒屋敷

君の名は希望 =久菴とは、濃姫とは=

 生駒家において隆盛の祖として大切にされたのは、初代でも、織田信長に仕えた四代でも、従五位下になった十代でもなく、織田信長の側室として、信忠、信雄、徳姫を産んだ久菴である。

 久菴について、ここでわかる事を整理しておく。

  • 兄弟・姉妹は、兄に四代目の生駒家長、久菴、その下に弟が2名、妹が2名。
  • 織田信長の側室である。
  • 信忠、信雄、徳姫を産み、徳姫が七歳の時に亡くなる。
  • 生年月日は不明、没年は1566年5月13日である。
  • 「吉乃」「類」は小説上の造語であり、生駒家の多くの古文書にその様な記載はない。
  • 「前夫」として「土田弥平次」なる人物がいると一般的に認識されているが、同じく、小説上の架空の人物である。

 これだけで、従来のイメージと異なると感じるのではないだろうか。

 まず、土田弥平次であるが、家譜(家系図)には「何某弥平次」と姓は記載されていない。理由はわからない。また、小説で商人という事が流布され、一般的に史実化されているが、実際は武家であった事、当時の階級制度や、久菴の父、兄弟、姉妹の婚姻相手を見ると、百姓と武家の長女が婚姻関係を結ぶとは考えられない。「土田弥平次」なる人物は、フィクション上の話と読者も理解が早いだろう。

 例えば、兄の家長は、神野氏から妻を迎えている。神野氏は楠木正成の末流である。楠木正成とは朝廷のために戦った、いわば英雄である。また、妹は織田六郎三郎の妻となっている。織田六郎三郎がどの人物か特定できていないが、信長に関する織田家一族の者であろう。その他の妹、弟達も婚姻相手やその子らの事は記載されている。武家を作るための婚姻をしており、長女である久菴だけ、百姓という事は考え難い。織田信長、または織田家に配慮してか、「何某」と姓の記載がないが、それなりの家の者に嫁いだと思われる。
 また、兄である生駒家長の娘は徳島藩の藩祖である蜂須賀家政に嫁いだ事は知られている事であるが、伏見城で亡くなった鳥居元忠の長男である鳥居忠政にも嫁いでいる。フィクションにある様な単純な話ではないものが史実である。

 「久菴」という呼び名についてであるが、これは生駒家での呼び名である。一般の方は、生駒家の話を聞かなければ知る由もない。いつから久菴と呼んでいるかはわからない。少なくとも戦前はそう呼んでいた。古文書上では、久菴の事を「桂昌」または「桂昌尼」と江戸初期から末期まで記されている。織田家や前田家にもそれで通用しているし、その様に記載がある。「久菴桂昌大禅定尼」という彼女の戒名の一部から、当時の慣習からかその様に記載したのであろうが、口頭ではどの時代にどの様に呼んでいたかは不明である。
 言える事は、生駒家では確かな事実として確認できる戦前もしくは大正時代には「久菴」であった。それ以前はいつから久菴と呼び伝えていたかはわからない。
 この事実から、初期の「武功夜話」で「久菴様」としているのは、戦国時代、江戸時代の「書き物」としてそぐわないと考える。昭和に入り、生駒家の者との話の中で知り得たものであり、そのため、「桂昌」「桂昌尼」と記載せず、近現代に生駒家が使用している久菴をそのまま使用したものと理解できる。江戸時代に書き記すなら、久菴とは記載できなかったであろう。。
 一部の歴史学者が「武功夜話」の成立年代を江戸末期との見解を出したが、その根拠は明らかにされていない。そして、その様に主張した学者は今も生駒家には取材も調査も入っていない。

 濃姫について触れておこう。前提として、世間にある正室、側室の格の違いや正室待遇説などに口を挟むものでも無ければ、濃姫に対し、特別な想いがあるという事でもない事は、必ずご理解頂きたい。側室と定められたのでそれで歴史を繋げる事が大切だと考える。
 濃姫は通称と理解しているが、ここでは濃姫とする。濃姫の記録や墓碑は存在しないと認識している。京都の大徳寺の墓碑を濃姫とした事についても、あまり意味の無い事であると認識している。

 久菴について私が目で確認した物・史実として以下の物が残っている。

  • 豊臣秀吉が、久菴の菩提寺である久昌寺に香華料660石を与えている。(朱印状)
  • 久菴の娘である徳姫(五徳)が徳川家康の長男:信康の正室になった。
  • 岐阜城下の臨済宗 崇福寺に織田信忠が位牌を残した。
  • 織田信長の重臣である前田利家の嫡男:加賀藩主の前田利長の菩提寺、富山県高岡市の瑞龍寺に久菴の墓碑がある。
  • 前田利長の正室、永姫の菩提寺、石川県金沢市の久昌寺は永姫が久菴を意識し建立した。位牌が現存し、久菴と永姫が並び描かれた肖像画が残る。

 まだ、他所は調べられていないが、この様に織田信長の重臣である豊臣秀吉や前田利家、その息子の利長、妻の永姫が久菴を偲び残した事は、当時の重臣から見た久菴への想い、久菴の立場があったのかもしれない。久菴の死後も久菴の存在を認識していたと考えられる。
 一方、濃姫はどうか。私の調べる限り、確かな物として残る物は無い。俗説では、病死した、離縁し送り返された、実は長生きしたなどとあるが、現実は当時の重臣でさえ何も残していない。「室」として同じ時代を生きたと考えられる生駒家の記録にも濃姫の存在を示唆するものすらない。しかし、江戸時代に「正室」とされた。濃姫研究は、今後、読者をはじめ、研究者の研究が進む事を期待したい。

生駒 英夫