コラム 生駒屋敷

遠山一族と織田信長・生駒利豊(五代目)について

 遠山一族とは元々は、源頼朝の重臣・加藤景廉が恵那・中津川・瑞浪を中心とした「荘園」(遠山荘)の地頭となり、子孫が地名を取り「遠山姓」に改めたと云われています。
 遠山一族は、主に岩村城・明知城・苗木城を根拠地とした豪族で、特に、苗木は信濃と尾張を結ぶ木曽川の流通を抑える地であり、木曽街道に面した要地でした。

 一族の支配地域は信州から三河・尾張方面に出てくる道筋(逆に云えば三河・尾張から信州に攻め込む道筋)で、戦国期は織田・武田・徳川の争奪の地であり、一族の生き残り策も大変だったと思われます。

 大河ドラマ「真田丸」で、真田家が武田家滅亡の後、上杉・徳川・北条・織田の挟間であちらに付いたり、こちらに付いたり人質を出すなどの策を巡らせ一族の生き残りに必死でしたが、同じような事だったのでしょう。

 遠山一族の支配地は上記の様に重要拠点でしたので、織田家も遠山一族との関係強化を図ります。

 苗木遠山氏には信長の妹(注1)が嫁ぎ、「甲陽軍艦」によれば生まれた娘(姪)を信長は養女として武田信玄の子・勝頼に嫁がせ武田家と友好関係を図ります。遠山夫人と云われる人です。勝頼との間に信勝(注2)が生れています。

 岩村遠山氏には信長の叔母(注3)を嫁がせ、その夫・遠山景任が亡くなると信長の五男(後の織田勝長)を養子として送り込みます。(元亀三年・・・1572年)勝長幼少の為、叔母が城主として治めます。

 この様に、織田信長は遠山一族との関係を深めて行きましたが、元亀三年(1572年)から天正二年(1574年)にかけて、遠山一族の岩村・明知・苗木などの拠点は武田側の侵攻に尽く落ち、岩村城主(信長の叔母)は武田家臣・秋山信友と結婚します。この時、養子・勝長は一旦人質扱いされますが、後に織田家に返されます。

 しかし、天正三年(1575年)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍勝利後は、信長の嫡男・信忠が総大将として取戻し苗木遠山氏・明知遠山氏は旧領に復帰し、岩村城には信長家臣・河尻秀隆が入り、信長は遠山一族を支配下におきました。
天正十年(1582年)、長篠の戦いから7年後の織田信忠を先陣総大将とする甲州侵攻は、武田側の木曽氏が苗木遠山氏を通じ織田方へ内応した事から始まったと云われ、武田家も滅びます。

 苗木遠山氏は本能寺の変後、苗木城を豊臣秀吉側に明渡し、徳川家康方につきますが、関が原の戦いの時に遠山友政(1556年~1620年)は木曽路の地理に詳しく、山村氏・千村氏等と木曽路を抑え、徳川秀忠を助けた功で、関が原の戦いの後苗木城に1万石強で復帰し大名として明治維新まで続きました。

 ここで、生駒利豊(1575年~1670年)と苗木遠山氏との関係ですが、苗木遠山氏の藩主・遠山友政の長女を継室・了応院殿圭巌寿白大姉(1585年~1667年)として迎えています。夫妻は95歳と82歳と長寿を全うしました。夫妻のお墓は当地方では珍しい箱型のお墓で宝頂山墓地に埋葬されています。( 資料編に写真が載せてあります。)

 どの様な縁で結婚したのか分かりませんが、山村・遠山家は以前より親戚関係にあり、山村・生駒家は尾張藩の重臣でしたので、縁があったのでしょう。あるいは、織田家と遠山家、織田家と生駒家の関係も影響していたのでしょう。因みに、遠山友政の長女は利豊と結婚しますが、次女は山村家に嫁いでいます。

 (注1)寛政重修諸家譜では、信長には20名弱の兄弟姉妹がおり、妹に「女子・・苗木勘太郎某が妻」とあります。同諸家譜の苗木遠山氏については、友勝 → 友忠 → 友政 が載っていますが、友勝も友忠も生没年が解らず、「苗木勘太郎某」が誰に相当するのか解りません。同諸家譜の友忠の項に「妻は右大臣信長の姪」とありますが、「妹」のまちがいでしょうか?そうであれば、勘太郎は友忠と云うことになるのですが。

(注2)寛政重修諸家譜では、武田信勝の母は「苗木氏の女」となっていますが、具体的に苗木遠山氏の誰かは判りません。

(注3)寛政重修諸家譜では、信長の父信秀には10名弱の兄弟姉妹(信長の叔父・叔母)がおり、信秀の妹に「女子・・美濃国岩村の城主遠山内匠介某に嫁す」とあります。

 余談ですが、苗木遠山氏は関ヶ原の戦いの後、旧領苗木に大名として復帰しましたが、明知遠山氏は6千石強の知行で幕府の旗本となり、その分家から出たのがドラマ等で有名な江戸北町奉行・遠山金四郎です。幕末の1855年に亡くなっています。

 <参考>
関係者の年表
  永禄八年(1565年)・・・苗木遠山の娘(信長の姪)武田勝頼と結婚。
  永禄十年(1567年)・・・遠山夫人と武田勝頼の間に信勝誕生。遠山夫
                人(1571年)死亡。 
  元亀四年(1573年)・・・岩村城武田側に開城・武田信玄死亡。
  天正三年(1575年)・・・長篠の戦・岩村城陥落、秋山・信長叔母磔刑。
  天正十年(1582年)・・・武田勝頼・信勝父子、天目山にて自害(3月)。
                本能寺の変(6月)信長・信忠父子討死。
                勝長(五男)も討死。
  慶長五年(1600年)・・・関が原の戦い・遠山友政、苗木藩主(1万石強)
                となる。

平成29年1月
肥後次郎