コラム 生駒屋敷

 「武功夜話」問題に於ける、私の想い。  =すべては、「生駒吉乃」という名が物語る=

 「武功夜話」問題に於ける、私の想い。
 =すべては、「生駒吉乃」という名が物語る=

 武功夜話は3巻本、5巻本、21巻本があると言われているが原本を確認した者はいない。確認して一定の判断をしたという事実も、原本と称するものを破棄される事を回避するために、便宜上、後の研究のため、リップサービスしたものであろう。愛知県史の三鬼清一郎氏などは、それにあたると思われる。

 完全否定してしまえば、公開してもらえないままお蔵入りで検証ができないからだ。事実、史実では無いと疑うなら焼却するという話もあった。

 武功夜話3巻本はその筆跡や系図の特徴から、由緒を売り歩いた郷土史家の津田応助氏が書いたものと考えられる。

 津田応助氏は、由緒の売る歩く活動していた。戦前から生駒家にも接触があり、由緒の売り歩きの過程で、土地の問題(6代目:生駒利勝の墓地)の扱いにより、生駒家や地域の歴史は大きな損失を受けた。この問題は、現在も形を残し引き続いているので、明確に検証ができる。

 この様に、津田応助氏は、ベースの歴史を尾張生駒家が多くの記録を持っていると知らず、地域に由緒を売り歩いた形跡がある。当家の本物の存在を知り、トーンが下がった様子が覗える。また、売った先は地域の有力者や、商売が上手く行っている方(資産のある家)と概観して見えてくる。

 骨董品収集家で筆まめな吉田氏は、前野将衛門の由緒を昭和30年以降に手にしたと思われる。武功夜話3巻本に則り、武功夜話(いわゆる前野家文書)が作成されている事を考えると、津田応助氏からもたらされ、構想を膨らませた可能性は高い。

「武功夜話」は、津田応助氏が昭和42年に亡くなり、吉田氏から小説を書きたい旨、生駒家に話があり承諾をした。  

津田応助氏が亡くなったあとは、生駒家文書の全容の存在を知らない吉田氏は、自由に小説を書いた。これが、現代に繋がる武功夜話の原型である。

 安易な一例は、「吉乃」という名前である。生駒は奈良県から来た一族なので、当初は吉野桜からとり、「吉野」としていた。

しかし、「生駒吉野」となると、「生駒」という姓と、姓で使われる「吉野」が連なり、「生駒吉野」と「姓+姓」になりしっくりこないため、郷土史家のアドバイスもあり、「吉乃」となった。小説上の名前は「生駒吉乃」になったのである。

「生駒吉乃」 戦国時代、江戸時代には使わない、現代的な名前である。

 その様な変更は、話で聞いたので、小説を構想する上ではあり得る事と思い、当家から注文を付ける事は無かった。フィクションなので自由に創作すれば良いとの姿勢であった。

また、生駒家では久菴と呼んでいたので、「吉野」であろうが、「吉乃」であろうが、小説の中の話しであるため、どちらでも良かったし、小説上の名前に特別な意向も関心も無かった。

 次に大きく脚色した事は、「生駒家は馬借を生業とする豪商である」という内容である。生駒家は、犬山城に居た織田信康の旗本(重要な家臣)であった。

 生駒家は現在の江南市に勢力を持っていた。織田信長が清州または那古屋から攻略を狙った岩倉(岩倉城)、犬山(城)の中間に位地する地域である。

愛知県の南から岩倉→小折(江南)→犬山と位置する。織田信長は、犬山城と岩倉城の中間に位置する生駒家の小折城に目を付けたのだろう。久菴と婚姻関係を結び小折城(江南市)を仲間に入れ、犬山の織田信康と組んで、岩倉の織田氏を攻略した。

その後、織田信長は犬山城の織田家と岩倉城の扱いについて、意見を異にし、犬山城の織田家を追放し、尾張の統一を成し遂げたのである。

生駒家にもこの様な記録はあるものの、生駒家が馬借生業とする豪商だったなどの記録は皆無である。
歴代、地域の豪族と婚姻関係を結び、勢力を伸ばした武家であった事が各地の記録に残る。各地の一次史料でも、当時、生駒家が商人であったという記録は皆無である。

戦国時代当時、生死を分ける局面で、商人の娘と婚姻関係を結び長男、次男、長女をもうけることはない。小説上、単に面白いものに仕上げた結果である。

これらは全て、一次資料で確認できる。生駒家が尾張でどの様な勢力を持ち、どの様な婚姻関係を持ち、どの様な位置づけだったかがわかる。

この様な話であったため、当家は、当然、史実とはかけ離れた時代劇と同じく小説を書くものだと思い、関心が無かった。吉田氏自身が後に「前野将衛門の末裔でした」とするとは、考えも及ばなかった。

しかし、津田応助氏が亡くなり10年以上経った昭和53年頃、ちょうど、生駒家も小説に関心を持たなくなった頃であるが、作者の吉田氏が「自分は前野将衛門の子孫である」と称し、次々に原本非公開の偽文書を作成し、上手に世間を欺いてしまった。

その結果が5巻本となり、さらに増えて21巻本まで増え、途中、間違いを指摘された際に、その間違いを補完するとする史料と称し、古文書などを作成し、正しさを主張し世間を欺いてしまったものである。

戦国時代の名前とされた「生駒吉乃」という現代的な名前。或は、尾張藩の史料、生駒家の史料、歴史過程の一般的な制度、風習などからすぐに終わるものだと思っていたが、21巻本出版から30年を迎えようとしている。

そして今も、吉田氏は史実と称し、「敗者の歴史」と称して真実味を語っているようだ。しかし、「敗者の歴史」の言葉の使い方も間違えている。

結果、三英傑が若い頃活躍した時期の尾張地方の研究が成されず、日本の歴史のターニングポイントの欠落が起きている。

私は、「武功夜話」は当初話があったように、小説として関心を惹く面白い作品であるという評価で満足をして欲しい。有名な武将(前野将衛門)の末裔である事に固執して、史実を主張しても、内容が稚拙であるし、そもそも吉田氏が末裔に固執しても、誰も何も得をしない。 小説「武功夜話」の名を落とすだけのものである。

後世のためにも、人口が減る日本国のためにも、正しい過去の国の在り方、歴史観を繋ぐために理解をして欲しい。

私にとっては、原本調査は何の意味も持たない。それ以前の話で決着がついている。

また、生駒家が吉田家を頼り、奈良から小折(江南市)に来たという武功夜話(前野家文書)を史実と主張していく事は、当家の名誉を著しく毀損するものである。

吉田氏には、その事も留意いただき、武士道に則り、ご自身でこの社会問題に終止符を打って欲しい。

「事実は小説よりも奇なり。」

小説「武功夜話」には、小説としての面白さがある。
しかし、史実にもそれ以上に有意義な事や、日本の歴史が変わるような大きな関心もあるため、強くその様に思う。

【以下、参考資料】

                                 
 写真は、名古屋市豊清二公顕彰館(現在の名古屋市秀吉清正記念館)で昭和52年3月に開催された、「名古屋 生駒家・滝川家資料展」のパンフレットである。
 
 展示物の紹介では、生駒家関係の資料32点の内、29点が生駒家所蔵のものである。
 
 写真3枚目の赤枠で囲った部分が、当家の陸彦の紹介で、当家所有の冨士塚の碑の拓本(版画)(拓本は吉田氏が所有)を展示したもので、当時は「前野将衛門」の末裔と強く称しておらず、歴史愛好家、骨董品収集家としての認知であったし、研究者の評価であった。同資料展で展示された、前野兵庫書状ですら、吉田氏の所蔵では無い。

 なお、この資料展では、当家所蔵の内藤東甫の俳画(リストの26番目)に吉田氏が強く関心を寄せていた。

 生駒家の多くを語る「武功夜話」。吉田氏が、奈良から生駒家を小折(江南市)に呼びよせた前野家の末裔であり、生駒家以上の情報や史料を持つと称し、この資料展当時に強く主張していれば、当家の冨士塚の碑の拓本を当家の紹介で展示するだけにとどまらなかった事であろう。

 尊く、美しい日本国の歴史のために、多くの方に、この社会問題について正しい理解をしていただきたいとともに、小説「武功夜話」については、小説の名作であるとの評価で留めていただきたい。
 

平成30年4月15日
生駒 英夫