コラム 生駒屋敷

尾張藩での生駒家の官位について

 昨年、本コラム欄に「生駒利豊(四代)の叙位・任官書について」を載せましたが、尾張徳川家の家臣になってからの生駒家の当主は、3名が「従五位下」に任ぜられました。

 江戸時代は、「禁中並公家諸法度」により、大名家以外の者は官位の授与を認められていませんでしたが、例外として、旗本・御三家と加賀前田家は認められていました。

 具体的には、尾張徳川家・紀州徳川家は6名、水戸徳川家は5名、加賀前田家は4名です。旗本は時代により役職の増減もあり30名前後でした。

 尾張徳川家では家付家老である成瀬家(3万5千石)・竹腰家(3万石)が優先的に受け、残り4名分を他の家臣が受けていました。
 1800年頃の家臣団の石高は、上記の2家を除き、1万石以上が渡辺・石河・志水の3家、4~5千石が山村・千村・横井・生駒・山澄など8家あり、 1800年頃までは、1万石以上の3家が授与され、残りの1名分を他家に授与されていました。

 生駒家当主で最初に「従五位下」に任ぜられたのは、周房(十代)で、その後、周邑(十一代)・周晃(十四代)が叙任されました。
 周房・・・「従五位下・大膳亮」  明和八年 (1771年)
 周邑・・・「従五位下・因幡守」  天明七年 (1787年)
 周晃・・・「従五位下・因幡守」  天保一四年(1843年)
 
 周行(十五代)は明治維新前に重職に就いていたので、本来なら貰えたと思いますが、幕末の混乱期でそれどころではなかったのでしょう。周行の役職については、コラム欄「江戸城明渡し前後と生駒周行(十五代)」を参照願います。

 江戸幕府は、武家が上位の官位・官職を占めると、天皇を輔弼する公卿の官職が少なくなり、天皇を中心とする朝廷の組織運営に支障が出るので、公家とは別に「武家官位」の制度を作り、武家の大納言・中納言には「権」を付け、「権大納言」・「権中納言」の呼び名にし、員外官(定員外の官人)としました。
つまり、名誉職で実際に官職の仕事をした訳ではないということです。

 「従五位下」に叙爵されると「OO守」の様な官職を付けますが、「従五位下」は無官(官職はありません)なので、「OO守」の様な名乗り(官職)は、自分で選んで幕府の許可を得た。なにしろ、「OO守」と名乗れる国数は70ヶ国弱で、大名や旗本等の叙任者は250名以上いたので、自分で好きな名乗りを選ぶ方法が採られました。当然、同じ「OO守」が複数人いた事になります。

 武家の官位は幕府から朝廷に申請して天皇の勅許を得て、「従五位下因幡守」の様な正式な位階と官職の口宣案・位記・宣旨を貰い、これにより、自分で選んだ官職も形式的には認められた。

 なお、位記・口宣案の発給には、朝廷に対し、金子(手数料)を進上し、朝廷(天皇・公家)の収入となりました。大名は代替わりの都度だから、年間結構な件数になりました。

 叙任される方は、朝廷だけでなく幕府などの関係者への御礼など結構な費用が掛り、「従五位下」で40両(約400万円)程と云われています。

 余談ですが、旗本では、駿府城代・伏見奉行・町奉行・勘定奉行・長崎奉行などの役職に就いた人が叙任されました。

 現代の会社の人事制度も資格と役職の組合せの組織のところが多いと思います。例えば、主事は係長・参事は課長・理事は部長などの様に。

 「武家官位」では、「位階」と「官職」はおおよそ次の様に対応していました。
 従五位下 ・・・無官(諸大夫)
 従四位下 ・・・無官、侍従、少将
 正四位下 ・・・中将
 正四位上 ・・・中将
 従三位  ・・・中将、参議、権中納言
 正三位  ・・・権中納言
 従二位  ・・・権大納言

  将軍家は別格で、尾張徳川家の殿様は「従四位下」から始まり、極位極官は「従二位・権大納言」です。

 また、室町幕府の権力衰退時(戦国時代)は、諸大名が朝廷と交渉献金して官位を貰ったり、朝廷から任命も受けずに勝手に官名を自称する者もいました。  
戦国時代を舞台にした小説では、やたらと「OO守」と名乗る者が出てきますが、殆ど自称だろうと推定されます。

 写真は生駒周房(十代)が「従五位下・大膳亮」に任ぜられた時に与えられた文書(3種類)の包紙です。中には次の文書が入っています。

  口宣案二枚 ・・・・
叙位と任官二枚(形式的には「案」(メモ書き)であり、正式文書ではない)。
  宣旨一枚  ・・・・
「大膳亮」の官職に任ずる正式文書。
  位記一巻  ・・・・
「従五位下」を授ける正式文書。一巻と書かれているように、長さ162cmの巻物である。

 なお、これらの文書は、勅使接待や朝廷との折衝を担当していた高家と云われる家格の人(赤穂浪士事件で有名な吉良家など)が朝廷に出向いて受取り、叙任者に渡していました。

平成29年4月
肥後次郎